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大阪地方裁判所 昭和57年(ワ)9273号 判決

原告

川村節子

右訴訟代理人弁護士

最上哲男

被告

西川良彦

右訴訟代理人弁護士

菅生浩三

葛原忠知

佐野久美子

甲斐直也

藤田整治

川本隆司

中村成人

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し、一〇〇五万円を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  被告は、肩書地において歯科医院を経営する歯科医師である。

2(一)  原告は、昭和五五年八月一日(以下「昭和」を略す。)、数年前に他の歯科医院で入れた左上中切歯のさし歯の治療のため、被告方を訪れた。

(二)  被告は、形取り等をした後、同月二三日、原告の左上中切歯のさし歯の上に、冠を装着した。その際、原告が「自分の歯は削らないでくれ。」と言つたにも拘らず、咬合調整のため、原告の健全な左下中切歯・側切歯を削つた。

3  被告の責任

(一) 不法行為責任

(1) 被告は、故意又は過失により、原告に対して、医学上公認されていない対合歯削合を行い、そのため原告は、後記4の損害を被つた。

即ち、対合歯削合は、歯周病(歯槽膿漏)治療のために考案されたものである。歯周病が進行すると、歯茎が冒されて歯列が不均等になり、咬合が極度に悪化する。対合歯削合は、このようなやむを得ない場合、緊急避難的に対合の健全な歯のエナメル質を削る処置である。これに対し、歯冠補綴の場合は、対合歯の形状を所与のものとして印象・補綴を行えば、咬合異常はおこらないはずであるから、対合歯削合の必要はない。したがつて、歯冠補綴に際しての対合歯削合は、医学上公認されていないのである。仮に、歯周病の治療以外に対合歯削合の必要性が認められるとしても、それは、歯が欠損のまま長期間放置していた箇所に歯を入れるに当たり、対合歯が浮上つている場合や、先天的な歯の形状異常の場合に限られる。

(2) 原告の左上中切歯に冠を装着した際、咬合が緊密であつたのは、被告の行つた印象・補綴が不適正だつたからである。原告の歯には、対合歯の浮上り、先天的な形状異常もなかつたのであるから被告は、冠を削る、或いは作り直すことによつて咬合調整をすべきであつたにも拘らず、対合歯削合を行つたものである。

(3) さらに、被告は、原告の承諾を得ずに対合歯削合を行つた。

(二) 債務不履行責任

原告と被告は、同年八月一日、原告の左上中切歯を治療する旨の契約を締結した。したがつて、被告は原告に対して、最も妥当な治療行為をする義務を有していた。然るに被告は、右(一)で述べたように、原告の承諾も得ず、しかも医学上公認されてない対合歯削合を行つたため、原告は、後記4の損害を被つた。〈以下、4、5省略〉

二  請求原因に対する認否

〈省略〉

第三 証拠〈省略〉

理由

一請求原因1・2(一)の事実は、当事者間に争いがない。

二そこで、原告主張の、原告の承諾を得ることなく、被告が対合歯である自然歯を削つて咬合調整をした、との事実の有無を、その経緯を含めて検討する。

右争いのない事実と、〈証拠〉を総合すれば、次の事実が認められる。

1  原告は、五五年八月一日、三、四年前に吹田市内の歯科医院で入れた左上中切歯のさし歯の具合が悪くなつたので、被告方を訪れた。被告が診察したところ、さし歯の裏側の根の部分が虫歯になつていたので、その部分を削つた(ただし、カルテへの記載を脱漏した。)。さらに、リーマーで根管を形成し、根管の先が炎症を起していたので、ガッターパーチャポイントを加圧して根管に入れ、根管の中を緊密に充填した。

2  同月七日の治療の際、被告は、以前のさし歯を土台にして冠を被せることとし、歯冠形成(歯茎の調整。)、歯肉形成(歯形を確実にとるため歯茎の表面を形成すること。)、圧排(きれいに歯形をとるため歯茎を糸で押上げること。カルテには、保険請求の関係で同月二三日の欄に記載した。)、印象(歯形をとること。)、咬合調整をして、仮歯を入れた(仮歯を入れたことは、保険請求の関係でカルテの同月一一日の欄に記載した。)。咬合調整の際、被告は原告に、上下の左中切歯のかみ合わせがきつい(以下「咬合緊密」という。)旨告げた。

3  同月一一日、原告は、前回(同月七日)に入れた仮歯がとれたので、仮歯を入れなおしてもらつた。

4  同月二三日の治療の際、被告は、仮歯を抜いてジャケットクラウンを試験的に装着し、カーボン紙をかませて咬合状態を調べ、原告に咬合の具合を聞きながら、二、三回ジャケットクラウンを抜いて、その当たる裏側の箇所を削つた。しかしなお、原告から当たるという答えが、返つてきた。被告としては、これ以上ジャケットクラウンを削ると破損するか、破損しないとしても維持安定を損うおそれが多く、かといつて作り直したとしても、いま以上のものを作製するのはむつかしい、不具合の調整には下歯の左下中切歯削合によるほかないと考えた。そこで、原告に対し、咬合緊密のため右処置をすると告げたところ、原告が黙つて口を開けていたので、被告は、原告が承諾したものと解釈して、左下中切歯のエナメル質を一番深い所で約〇・四ミリ削つた。被告は、右のような削合をしても、自然歯は刺戟が与えられると、生体防御反応により第二エナメル質といわれるものが形成され、ほぼ自然歯と同程度の機能をもつに至るとの認識をもつていたので、不具合部分についてはなお調整可能と考えていた。ところが、原告は、被告が他の患者を診察している間に、次回の診療日を同年九月一三日と予約して帰宅してしまつた。原告は、不具合調整のためにそれ以上自然歯を削合されるのを嫌つたからであつた。

5  原告は、右予約日に左中切歯以外の歯について治療を受けたが、咬合の不具合等については全く触れなかつた。

以上の事実が認められ、これに反する原告の供述部分は信用できず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

右認定の事実によると、被告はジャケットクラウンを作製後、数回にわたつて咬合状態を原告に確かめ、その都度ジャケットクラウンの裏側を削つて調整を図つたのち、それ以上の調整は対合歯の削合によるほかないと判断し、原告に対して、咬合緊密のためより以上の調整には左下中切歯の削合を要する旨告げたこと、もし、原告が反対する意思であつたのであれば、直ちにそのことを言葉ないし動作それも単に手による動作だけでも容易にこれを示すことができたのにこれをせず、ただ、黙つて被告の対合歯削合による調整を完了させたことが認められるのであつて、右事情のもとでは、原告は少なくとも黙示の承諾を与えたものと推認するのが相当である。また仮に、原告が反対意思をもつていたとしても、右のような事実関係のもとでは、被告が、原告が承諾したものと考えたことに無理はなく、そこに被告の軽卒さがあつたとして責めありとすることは、当を得ないというべきである。

したがつて、原告の前記主張は認められない。

三そこで次に、原告主張の、歯冠補綴による咬合調整のために対合歯削合をすることは歯科医学上認められていない違法な治療行為である、との点について検討する。

〈証拠〉を総合すれば、対合歯削合は、外傷性咬合の典型的治療方法の一つであつて、臨床医学的には、歯冠補綴の際、冠を削つて咬合調整をしても咬合緊密のためかみ合せが不具合な場合、その調整に対合歯のエナメル質を削ることは、やむを得ない処置として一般的に行われていることが認められる。したがつて、歯冠補綴に際しての対合歯削合自体を直ちに違法な治療行為であるとする原告の右主張は採用できない。

もつとも、右に判断したとおり、対合歯削合による咬合調整は、あくまでも他に方法がない、やむを得ない場合にとられるべき手法である。即ち、①ジャケットクラウンの作製に瑕疵がなく、②右ジャケットクラウン装着後の咬合調整は、先ずジャケットクラウンの削合によつて行ない、③しかもなお不十分で、やむを得ない場合に、自然歯である対合歯の削合処置がとられるべきものである。

なお、①については、事柄の性質上、③の処置不要というような巧ち性を要求されるものでないことはいうまでもなく、歯科医学上の技術的水準からみて作製し直すべき必要性が認められないことをもつて足りると解するのが相当である。咬合調整の要否及び程度は、〈証拠〉から、患者の主観・気質によつてかなり影響されることが認められるからである。

そこで、本件について、右①ないし③の各点を、より具体的に検討する。

〈証拠〉を総合すれば、次の事実が認められ、この認定を左右するに足る証拠はない。

原告は、五六年に入つてなお咬合に不具合を感じ、先ず同年夏頃、近くの直田歯科医院に、次いで同年一〇月二三日、大阪大学歯学部附属病院に赴き、事情を話して咬合調整を求めた。右医院及び附属病院のいずれにおいても、ジャケットクラウン自体に対する欠点の指摘はなく、むしろ、右附属病院では、同年一一月一四日、原告に対し、原告が求める、より以上の調整をする場合、ジャケットクラウンが破損するおそれが大きく、そのため、もし、右事態が発生しても同病院に責めを問わない旨を約させたうえ、可能な限りジャケットクラウンの裏側を削つて咬合調整をした。原告はそれでもなお十分でないと言つていたが、それ以上は無理として行なわなかつた。その際にもジャケットクラウン作り直しの勧めはなかつた。なお、ジャケットクラウンの出来ばえは、右にみたところからも明らかなように平均レベルを下回るようなものではなかつた。

右認定の事実によると、被告作製のジャケットクラウンの出来ばえは、大阪大学歯学部付属病院等いずれにおいても、原告から右ジャケットクラウン装着後の苦情を聞いたうえで種々の検査、処置を試みられながら、なお、ジャケットクラウンに対する不良の指摘なく、その取り替えなどは考慮外とされていたこと、かくして、右附属病院では極限に及ぶジャケットクラウンの削合が行なわれたものの、原告の不具合感は除去されず、より以上の咬合調整は対合歯の削合によるほかなかつたこと、しかも、それは、既に被告が行なつた前記対合歯削合後においてなおそうであつたことが認められる。

そうすると、前記被告の対合歯削合処置は、結局、前記①ないし③の要件具備のもとにされたものというべきこととなり、被告の右処置を不法行為ないし債務不履行に当たる行為とはいえない。

したがつて、原告の前記主張も理由がない。

四以上みたとおり、原告が前提とする、被告の不法行為や債務不履行自体が既に認められない本件においては、その余の点について判断するまでもなく、原告の請求は理由がないこと明らかであるから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担について民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官和田 功 裁判官辻川 昭 裁判官中里智美)

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